私が外資系戦略コンサルティング会社で働いていたことを知ると、20代~30代前半の多くの方が、そこでの経験がキャリアに与えた影響を聞いてくれます。外部からは華やかに見えるコンサルティング会社ですが、内部は厳しいプロフェッショナルの世界で、相当の覚悟で仕事にあたる必要があります。ここでは、有名な元コンサルタント/経営者のコンサルティング会社での経験を紹介したいと思います。

ルイス・ガースナー「日本経済新聞: 私の履歴書」より

2002年11月日本経済新聞の「私の履歴書」はIBMの元会長兼CEOのルイス・ガースナーが連載しました。彼はハーバードビジネススクールを卒業した後、マッキンゼー、アメリカンエキスプレス、ナビスコ、IBM、そしてカーライルで要職を務めたエリートとして知られていますが、彼はこの連載でで挫折を告白しています。当時、外資系戦略コンサルティング会社で働いていた私は、ガースナーですら、挫折をしたんだということに驚き、かつ、その挫折を赤裸々に語る彼の器の大きさに驚き、強烈な印象の残る連載となりました。ここではその連載の一部を紹介します。

マッキンゼーへ

就職、GM研修が契機 コンサル、メーカーに絞る

もう一つ、ハーバード・ビジネススクールで学んだ重要なことはチームで仕事をすることの意味だった。一人で作業することはむしろまれで、たいていの事例研究は集団で議論した。少なくても2、3人、時には6人編成でやった。
チームで学ぶことは、ある人たちはまじめに仕事し、ある人たちはしないという現実だ。宿題もちゃんとやって自分の考えをしっかり述べる人がいれば、黙っていて、ちゃっかり他人のアイデアをちょうだいしようという人がいる。自分の意見を簡潔に付け加える人がいれば、冗舌にひたすらしゃべりまくる人もいる。何も話すべき内容もないのに発言したがる人もいる。 チームメートのそれぞれの性格や気質がよくわかった。社会に出て、仕事上、最も重要だと思うのは人を見る目を養うことだ。人物を見抜いて、やる気を起こさせ、適材適所に配置し、適切な指示を与えることだ。そうした人物評価の基礎訓練を、大学院のチーム作業で学んだと思う。
大会社の経営者ともなれば、自分で何もかもできるわけがない。いくらコンピューターの設計が好き、営業が好き、経理をしたいと言っても、CEO(最高経営責任者)としてはすべて他人に委ねるしかない。チームのメンバーを選び、信頼してまかせ、その仕事ぶりを評価するしかないのだ。
さて今、米国ではMBA(経営学修士号)が有益で価値があるものかどうかについて論争が起きている。私自身はそれに十分説得力のある判断は下せないと考えている。第一にMBAの優れた学校もあれば、たいしたことのない学校もあるからだ。非常に優れた学校が指導者を多数輩出しているのはたしかだが、それはその学校に行ったから指導者に育ったのか、もともとそうした資質のある人たちが学校に行ったのかがわからない。
私にとってハーバードはとても重要な意味を持っている。何しろ入学した時、まだ21歳の若者でしかなかったし、MBAを取得するまでに夏休みの企業研修など、いろいろと仕事する経験を積むことができたからだ。
1年目の夏にはまだどんな分野に就職したいのかもわからず、ゼネラル・モーターズ(GM)の労務部門で研修した。厳しい労使交渉を間近に見て、経営側の責任者が非常に優れていたことに感心し、研修後には「よし、就職するなら経営コンサルタント会社か強力な商品を抱えるメーカーだ」と考えた。当時のハーバードではこの2分野が幅広く学べる職種として最も人気があった。
翌年、私は両職種の会社の面接をたくさん受け、最終的にプロクター&ギャンブル社とマッキンゼー社に絞った。前年の夏、実はマッキンゼー社に研修希望を出したが、断りの手紙をもらっていた。それが今回は採用すると言う。他社からも多数、合格通知が来ていたが、マッキンゼーに決めた。入社は65年の夏、23歳のときだった。
面白いことに、入社1年後にMBA採用担当になって、私が1年の夏に受け取った手紙は「今後ともあなたを採用するつもりは全くないので、二度と就職希望してこないように」という意味のこもった手紙だったことを知った。ごく最近、マッキンゼー社の経営陣と会った時にその話をしたら、大笑いになった。

私の履歴書

ハーバードビジネススクール1年生の時、マッキンゼーはガースナーに「今後ともあなたを採用するつもりは全くないので、二度と就職希望してこないように」というメッセージを送ったが、当のガースナーは、そのような趣旨を理解していなかったのが可笑しいですね。

試練

「他の仕事探したら・・」、指導係の言葉バネに昇進

ニューヨークに本社のある経営コンサルタント会社、マッキンゼーに入ったのは65年6月のことだった。この会社のプロとしての仕事ぶりに感心していたので、就職できてうれしかった。ここでは昔も今も社員が信念を持って建設的に指導力を発揮しようする風土があり、それが質の高い仕事をもたらしていた。
会社は当時、社員が400人ほど。活動地域は北米がほとんどで、欧州ではロンドンと、フランクフルトにオフィスがあった程度だった。その後、1970年代に大前研一氏が日本支社長になったように、営業拠点を広げていった。
私の初任給は8500ドルプラス・ボーナスで年収約1万ドルだったと思う。当時でもコンサルタント会社は最高レベルの給与を出していた。
入社して最初の仕事はモービル石油社の役員報酬問題の研究だった。マッキンゼーは当時、多くの企業の役員報酬問題を扱っていた。私はもちろん報酬問題も石油業界も全く知らない。並んだ顔ぶれの中でも一番下にいるので幸いだったが、社内では猛スピードで駆け上がることが期待されており、数日後には自分より数十歳は年上の企業役員と面談するようになっていた。
新入社員は「ニュー・アソシエート」と呼ばれ、4、5人編成のチームで基礎的な調査をするのが主な仕事だ。先輩や上司の指示に従って資料を読み、事実関係をチェックし、要約し、分析し、図表化する。新人の仕事はどこでもたいして変わらないだろう。
マッキンゼーは特に若者にとって非常に挑戦しがいのある職場だ。ごく普通の問題にも相当な難問にも同じように取り組み、顧客企業の重役と交渉し、基本的な事項についても学べる。常に自分を駆り立てていなければならず、決して気が休まることがない。
入社2年目に、私の指導係だったパートナーと食事した時、丁寧な口調だが「どこか他に仕事を探した方がいいんじゃないか」と言われた。彼がなぜそう言い、それに私がどう応じたのかは覚えていないが、実に厳しくも貴重な体験で、決して忘れられない。彼の言葉はその後もずっと私の中に生きていて、率直かつ正直に話すことが相手のためになること、他人の精神的な支えになることの意昧について考えさせてくれている。
彼の言葉が励みとなり3年後にパートナーに昇進した。それも最年少記録だった。当時は同期入社の7人に1人の割合でしかパートナーになれず、1人がなると他の6人は退社した。それは「アップ・オア・アウト(昇進か退社か)」と呼ばれた。努力なくして成功なし。若い社員には過酷な職場環境ではあった。
そこは同時に、社会人として働くことの意味を学ぶ場でもあった。

私の履歴書

ガースナーですら、「どこか他に仕事を探した方がいいんじゃないか」と言われた経験があるというのが戦略コンサルティング会社の厳しさではないでしょうか?まあ、その言葉をきっかけとして、3年後にパートナーに昇進したというのが、ガースナーのとてつも無いところです。

転職を決意

経営そのものに興味 アメックス、魅力的な誘い

入社3年後の1968年、26歳の時に結婚した。職場が同じニューヨーク市内にあり、銀行の融資担当をしていた彼女と知り合い、何でも話した。
マッキンゼー社ではきわめて順調に仕事し、出世していった。社内では私は「駆け抜ける男」と評されていた。パートナーになって交際範囲が広がりゴルフを始めた。自分の顧客として全部で30社ほど直接長く担当し、あと30社ほど短期で助言してきた。
そこで学んだ最も重要なことは、担当する会杜の基盤が何かを精細に理解することだった。マッキンゼーは顧客企業の市場性、競争力、戦略の方向性について深く分析することに強くこだわった。コンサルタント業とは深い分析力と意思伝達力と顧客に変革を起こさせるよう仕向ける能力を組み合わせたものだ。優れたコンサルタントは優れた分析をし、その結果を顧客にうまく伝え、それを確実に実行させなければならない。
私には何年も担当してその会社が成功するのに重要な貢献をしたと自負できる大企業が3社あった。そうした会社のトップとは非常に親密になり、見返りも大きかった。
入社9年でシニア・パートナーの地位まで昇進し、財務部門の責任者となり、さらに社業のかじ取りをする上級リーダーシップ委員会のメンバーとなった。金融サービス会社など主要顧客3社の責任者となり、その第1位がアメリカン・エキスプレス社だった。同社はパートナーになる前、入社4年目ごろから担当していた。
マッキンゼーの企業文化は何よりも優れたアイデアを最優先させるというもので、私もそれが大いに気に入っていた。素晴らしい発想、鋭い洞察力がすべてであり、課題の解決に役立つことが言える人、考えをさらに先に進められる人には皆が素直に耳を傾けた。だから往々にして会議で議論をリードするのは、必要な調査を済ませ、考えを練って提案できる若い人たちだった。年次肩書きなど組織上の序列主義はなかった。
だが入社10年が過ぎて30代半ば近くに「このまま20年もコンサルタントは続けたくない」と思うようになった。たしかに知的刺激に満ちた仕事で、素早く行動し、大手企業の重役たちと付き合うことは楽しいが、助言者役を演じ続けることに大きな不満を抱くようになったのだ。
企業トップのところに分析結果と具体的な行動計画を持参して、なだめたりすかしたり言葉巧みに説得し、同意を取りつけたところで、コンサルタントはお役御免となり、事務所に戻る。計画の実行段階ではいないのだ。だが「私はテーブルの向こう側に座ってコンサルタントを雇い、決断し、実行する人間になりたい」と思うようになった。
コンサルタント会社を辞めて別な職業に転身するのは少しも珍しいことではなかった。事実、世界中至る所でマッキンゼーOBが自分で事業を起こしたり、政府の役人や政治家になったりしている。日本支社長だった大前研一氏も東京都知事選に出馬した。
そのころ、私にもたくさん転職の誘いがあった。その大半は私が担当した企業からだったが、いろんな理由をつけてすべて断っていた。どれも退社を決意するほどの魅力がなかったからだ。だが、アメリカン・エキスプレス社からの誘いは非常に魅力的だった。そこで77年、35歳の時、転職を決意した。

私の履歴書

この引用は、コンサルティング会社の面白さとそして限界をガースナーが端的に示してくれていますので、紹介しました。コンサルタントは、厳しいプロの世界だからこそ、生き延びるのも難しいし、また生き延びたとしても、その厳しさの中で日々を過ごすと、更にチャレンジをしたくなる人が多いのです。

プロの世界は厳しい

多くの若い方が戦略コンサルティング業界に憧れを持っていると思います。しかし世界的な経営者であるガースナーでも、マッキンゼーからは入社プロセスの途中で断られ、入社後2年目には転職をすすめられたということを、「私の履歴書」で語ってくれています。才能あふれるあなたが、戦略コンサルティング会社に応募し、縁があって入社しても、戦略コンサルタントは茨の道であることを理解しておくべきというのが私のアドバイスです。私は戦略コンサルティング会社をoutした人間ですが、それでもそこで体験したことは得難い経験だったと感謝しています。この紹介があなたのキャリア構築にお役に立てたら幸いです。

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